小栗上野介忠順(おぐり こうのすけ ただまさ)は、江戸時代の終わりに幕府(ばくふ)で活躍した重要な役人で、日本の近代化のために軍隊を強化し、造船所を作ったりもしました。幕府の財政改革も進めましたが、明治維新で幕府がなくなり、途中で終わりましたが、彼の考えは明治政府に受け継がれたということです。
2027年には、NHKの大河ドラマ『逆賊の幕臣(ぎゃくぞくのばくしん)』の主人公となることが決まっており、今後さらに注目される人物のひとりです。
1827年に江戸(現在の東京)で生まれた小栗は、非常に優れた知性を持ち、幕府の政治や経済、軍事に関する多くの改革を行いました。では、小栗の主な業績について詳しく見ていきましょう。
『逆賊の幕臣』小栗上野介忠順は何をした人?中学生レベルで徹底解説

この記事では、幕末期に活躍した小栗上野介忠順の生涯と業績、そして彼の改革が明治維新に与えた影響について詳しく解説します。小栗忠順の日本近代化への取り組みや、その改革が失敗した理由についても触れていきたいと思います。
彼の功績は後世に引き継がれ、日本の近代化の基盤となりました。この記事を通じて、小栗上野介忠順の偉大な功績とその影響を知ることができます。
- 名前:小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)
- 生誕:1827年7月16日(文政10年6月23日)
- 死没:1868年5月27日(慶応4年閏4月6日)
- 幼名:剛太郎
- 通称:又一
- 官位:従五位下・豊後守、上野介
- 氏族:三河小栗氏
- 父母:父:小栗忠高、母:小栗くに子
- 妻:正室:道子
- 子:国子、養子:鉞子、忠道
小栗上野介忠順の経歴
- 幼少期と教育
- 小栗忠順は江戸の名門旗本(武士の家)に生まれました。幼い頃から頭が良く、勉強や剣術、砲術、柔術などを学びました。
- アメリカへの渡航
- 1860年、アメリカとの友好通商条約のため、使節団の一員としてアメリカに渡りました。サンフランシスコに到着し、ワシントンD.C.ではアメリカの大統領と会いました。また、フィラデルフィアやニューヨークなど、アメリカの主要都市を訪れました。
- 重要な役職
- 帰国後、小栗は外国の交渉を担当する「外国奉行」、財政を担当する「勘定奉行」、軍艦を担当する「軍艦奉行」などの重要な役職を務めました。彼は幕府の改革や日本の産業革命を支える工場の建設を進めました。特に横須賀造船所の建設に貢献しました。
- フランスとの協力
- フランスの公使レオン・ロッシュと協力し、洋式の軍隊を整備し、横須賀製鉄所の建設を行いました。これにより、幕府の軍事力が向上しました。
- 新聞発行の提案
- アメリカでの経験を通じて、小栗は日本に帰った後、幕府に新聞を発行することを提案しました。これにより、日本の情報伝達手段が進化しました。
- 最期
- 1868年、薩摩藩や長州藩の軍によって捕らえられ、斬首されました。彼の死後、彼の功績は見直され、日本の近代化に大きく貢献したと評価されるようになりました。
小栗上野介忠順の主な業績

1. アメリカ視察と日本の未来
1860年、小栗は幕府の代表団の一員としてアメリカへ渡航しました。
- アメリカのワシントンD.C.で大統領と会談しました。
- ニューヨークなどの都市を視察し、西洋の先進的な技術や制度を学びました。
- 日本も工業化を進めるべきだと考えるようになりました。
2. 日本の軍備強化
小栗は、日本を守るためには強い軍隊が必要であると考えました。
- 旗本(はたもと)と呼ばれる幕府の武士たちに、西洋式の軍事訓練を受けさせようとしました。
- 鉄砲や大砲を用いた近代的な軍隊の編成を目指しました。
しかし、多くの武士は「鉄砲は武士の武器ではない」と考え、訓練に消極的でした。そのため、改革は思うように進みませんでした。
3. 産業の発展
- 横須賀(よこすか)に造船所(ぞうせんじょ)を建設し、日本国内で軍艦(ぐんかん)を製造できるようにしました。
- 鉄砲や大砲を製造する工場を設立し、武器の国産化を進めました。
- 日本初の株式会社の設立を試みましたが、成功には至りませんでした。
4. 幕府の財政改革
幕府の財政を立て直すため、無駄な支出を削減し、税制の見直しを行いました。経済の安定を目指し、さまざまな政策を考案しました。
5. 日本の国づくり
- 日本の土地を適切に管理し、国全体の強化を図る計画を立案しました。
- 彼の考えは、後の明治政府(めいじせいふ)が実施した「廃藩置県(はいはんちけん)」の基礎となりました。
小栗の改革が成功しなかった理由
小栗の改革は画期的なものでしたが、いくつかの理由により成功には至りませんでした。
1. 時間が足りなかった
小栗が改革を進めている最中に明治維新(めいじいしん)が起こり、幕府が倒れてしまいました。そのため、彼の計画を最後まで実行することができませんでした。
2. 武士たちの反対
- 多くの武士は伝統的な戦い方にこだわり、新しい軍事訓練を受けようとしませんでした。
- 鉄砲の使用に対する抵抗感が強く、近代的な軍隊の編成が進みませんでした。
3. 身分制度の壁
- 小栗は農民(のうみん)も兵士にするべきだと考えましたが、「武士だけが戦うべきだ」という考えが根強く、改革に対する反発が生じました。
4. 外国からの圧力と国内の混乱
- 欧米諸国の影響が強まり、幕府が自由に改革を進めることが難しくなっていました。
- また、薩摩(さつま)や長州(ちょうしゅう)といった藩が幕府に対抗して戦争を始めたため、小栗の政策を実行する余裕がありませんでした。
小栗上野介忠順の最期とその評価

1868年、幕府が滅亡した後、小栗は新政府軍に捕らえられ、処刑されてしまいました。しかし、彼が考案した改革の多くは、その後の明治政府によって実現され、日本の近代化に大きく貢献しました。
- 大隈重信(おおくま しげのぶ)や東郷平八郎(とうごう へいはちろう)といった歴史上の偉人は、小栗を「日本を近代化させた先駆者(せんくしゃ)」と評価しました。
- 作家の司馬遼太郎(しば りょうたろう)も「明治時代の基礎を築いた重要な人物のひとり」と述べています。

「『逆賊の幕臣』小栗上野介忠順は何をした人?中学生レベルで徹底解説」のまとめ

小栗上野介忠順の改革は、日本の近代化に大きな影響を与えました。彼の先進的な取り組みは、明治政府によって否定されつつも多くの面で継承され、日本の近代化の基盤となりました。彼の功績と影響を忘れず、今後も日本の歴史を学び続けることが大事だと感じさせられました。
以上が、小栗上野介忠順の生涯と業績、そして明治維新への影響についてのわかりやすく解説してみました。これを通じて、彼の偉大な業績と影響が広く知られることを願っています。
2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、彼の生涯がどのように描かれるのか、今から楽しみですね。
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